孫の事故死の悲しみを乗り越えて3セク経営施設の料理長に

1997年10月にオープンした道の駅(温泉・宿泊・レストラン・宴会等)の料理長に、永年、村で食堂を経営していた60代の女性に就任して頂いた。
食堂は、数少ない村の憩いの場として賑わっていた。役場職員にとっては、5時からの溜まり場となり、村づくり議論の場でもあった。
千客万来の賑わいがある食堂でとして、コミュニティが生まれた。
Iターンの私にとっては、時には母のうように叱咤激励して頂くことが度々であった。
住民に親しまれる食堂であったが、1996年9月16日を最後に店じまいした。
9月16日、小学校低学年の孫の女の子が食堂前の道路で、大型トラックに引かれ急死されてしまった。
これ以上ない突然の悲しい出来事に店じまいされたのである。
当時、私は1年後の道の駅オープンに向けて、日々10時過ぎまで、運営の方針や人材の確保、広報宣伝、ネーミングンの選定、関係機関への手続きなど業務や課題の整理に夢中であった。
夕食は、食堂にお願いすることが多く、9月16日も注文の夕食を歩きながら取りに行った。この道中で、事故と出くわしたため日時を忘れることができない。
道の駅オープン直前になってもレストランの料理長の選任が難航していた時、食堂の経営者(おかみさん)であった方に料理長の就任を依頼した。
悲しみのため、1年間、家に引きこもりがちであったが、村の活性化のため応援をお願いし、就任して頂いた。
農村の食文化、地域らしさを取り入れたメニューが人気となり、レストランの経営基盤を築いて頂いた。
60歳過ぎの年代で、多忙の日々で、肉体的にも辛かっただろうが、スタッフに厳しさと母の優しさでまとめて頂いた。
「厨房は戦争だよ。皆一所懸命に自分のこととして頑張っている」とリードして頂いた。
退任され、久しぶりに昨日会った。亡くなられた孫のことが話された。
私が「9月16日の5時過ぎだったね」と話すと「命日を覚えているの。ありがたいね」と涙されてた。
私としては、せめて命日を忘れないでいることが感謝と思っている。
まちづくりの注目地には、馬鹿になり、自分のこととして取り組んでいる人材が存在するものである。