20年数前の冬、高校時代の親友が訪ねてきた。広島県君田村(現在三次市)にIターンした年の、雪深い日であった。雪深いと言っても、津軽のしばれる冬の厳しさとはとは比較にならない。
友はいつの世も有りがたいもので、東京在住の友人は、見知らぬ地でどうしているかと、気になり出張帰りに立ち寄ってくれた。
中 国山地の裾野に位置する君田村まで、多くの友人、先輩などわざわざ訪ねて頂いた。そして、応援の言葉を残して頂いた。殆どは、未知の山村暮らしに悲観的に なっている状況を察し、異口同音に「古川よ、自然が豊かで、空気も良い、長生きできるぞ。奥さん、子どものためにもここで頑張れ」。有り難たく、嬉しかっ た。しかし、時々、観光や遊びに来るには良いが、生涯の生活の基地とするには、都会生活に夢と希望を抱き津軽を出た自分にとっては、物足りなさを拭えない 日々であった。
東京から来た親友は、帰り際に「古川よ。もう二度とこの村には来ない。寒いし、何にもないところだ。村役場で夢がある仕事ができないだろう。古川帰ってきたらどうか」と、極めてネガティブな言葉であった。
この村に心底溶けこんでいないとは言え腹立たしく思い「そんなことはない」と一言反論したのを思い出す。
親友は、私の性格から、批判的、マイナス的なメッセージの方がこの村で頑張るエネルギーになるとして言い残したと想った。
人は、言葉との出会いに感動し変わることができる。
全ての出会いを活かすことの大切さを痛感している。
・小才は縁に出会い縁に気づかず
・中才は縁に気づき縁を活かさず
・大才は袖触れ合う縁を活かす
旅先で出会った言葉である。
里子受託の決断は?
本サイトに匿名の方から「里子を受け入れる決断をされたことはどうして?」との問い合わせがありました。
3人の実子は、迷い、大学中退、進路変更など遠回りし、悩み、そのたびに多くの隣人に支えられ、背中を押されて進むべき道に気付いてきた。
中学校、高校から下宿生活であったので、親の躾け以上に下宿の大家さんなどに迷惑をかけながら成長させて頂いた。
妻 と話合い、子どもが早くから他人の家で世話になり育てて頂いた分を、里子を育てお返しすることにしようと決めた。受け入れに当たっては、3人の子どもにも 相談したところ、「齢の離れた弟として協力しよう」と言ってくれた。18歳まで養育するとなると、私たち夫婦は70歳代にになり、その時の経済的、肉体的 な不安を解消してくれると言ってくれ、喜んで受け入れることにした。
根底には、子ども好き、人好きな家族だと思います。
私も津軽人の気質である、お客を家に招き入れるのが大好きなDNAもあるのだろう。
受け入れ時は2歳が今は4歳5月になった。外の天候の変化に関係なくいつも我が家の太陽として温かく、話題を提供している。仕事場にきては「お父さん片付いていによ」など、妻の代弁者になりつつある。
虐待など子どもの養育環境は、物的豊さとは逆に課題山積となっているようである。里親制度を理解して頂けば、我が子の養育の仕方にも役立つと思う。
里子養育を通じて、政治の動きや世の中の変化にも目が向こともあり、子どもは大人に様々なメッセージを発信している。
ピラミッド風のとんどの社
今の時期、広島県の農山漁村の集落ではとんどが行われる。(火まつりで、言い方は地域によって多少異なるようです)
とんのどの社の多くは、地域にある竹を組み合わせて作り、高さ3m前後の円錐形が多いようである。
点火し豊作、無病息災、学問成就などを祈願する恒例の地域の伝統行事である。最近は、生活の多様化により住民の疎遠、ふれあいの希薄化が課題となっており、住民の交流の機会として開催され、賑わいの行事となっているところが多いようである。
府 中市の河川敷に設置されていたとんどの社は、芸術品である。稲わらを使い、四角錐に作ってある。つい、車を止めて観賞したくなる出来ばえであった。河川堤 防数キロメートルの区間に3カ所設置されていた。集落ごとに、とんどのまつりに向けて、住民が協力して作ったものであると思う。特に、そのうちの1カ所 は、エジプトのピラミッド群を創造させるような大小9基が設置されていた。観光資源としても地域発信のPR効果の高い構築であると共に、地域力を感じた。
建築家 安藤忠雄さんを訪ねて
はらみみちを美術館(広島県三次市君田町)の建築設計を依頼するために、2003年7月26日(土)午前9時50分安藤建築事務所を訪ねる。
事の発端は、はらみちをさんから私に電話が有り「建築家の安藤忠雄さんに設計をして頂けたら嬉しいな」との話であった。世界でも著名な安藤忠雄さんに設計など雲をつかむような事とは思いながらも、はらみちをさんの想いを取り入れた美術館を創ろうと行動を起こした。
建 築事務所へ電話をすると快く26日10時の面会を約束して頂いた。安藤忠雄さんに直接面会できるとは想っていなかった。しかし、安藤忠雄さんが9時55分 には見えられた。12時まで、2時間に亘り熱心に話を聞いて下さった。建物の設計に関する事、仕事と向き合う姿勢などご自身の人生観を織り混ぜて語って頂 いた。今でも鮮明に記憶している。また、充分過ぎるほど私にも話す時間を割いて下さった。
帰り際に「古川さん、人生は情熱を持ち続けて仕事に取り 組むことが大事だ。新しい事には批判が付きものだ。批判される情熱家になりなさい。情熱を抱き続けて、事業を継続することは誰もができないものだ。学歴で は、飯は食えない。」と語り、村長に1通の手紙を託し見送って頂いた。
前夜の睡眠不足も、安藤忠雄さんに勇気づけられワクワクして新幹線に乗車し帰途についた。
この安藤忠雄さん訪問の縁で、安藤忠雄さんの知人の広島在住の建築家の設計で完成した。
はらみちをさんの一本の電話、安藤忠雄さんとの出会いが斬新な「はらみちを美術館」となった。また、自らの人生の礎にもなっている。
日本を代表する製菓会社カルビー元取締役 佐久間さんの言葉
「人間とは、字のごとく人の間で生きている。間に挟まれていることは苦しいものだ。これから逃れようとしたら経営のリーダーにはなれない。変化で きる経営組織でなければならない」「3セクであっても取締役は身を切る覚悟が必要だ。経営の全てのことに責任を執る覚悟を持っていることが必要である」 「苦しい時があるから学ぶことができる」。
これは、製菓会社カルビーの元取締役の佐久間さんが常々話されていた言葉の一部である。
カルビーは広島県の宇品を発祥地とし、佐久間さんは、日本を代表する製菓企業としての礎を築いた一人である。
見た目は温かい笑顔がトレードマークと思いますが、経営に関わらず全ての事に対する誠実に挑戦的に時代を創造した生き方を貫いてきた人である。
毎月、関東から広島に来られるたびに、示唆に溢れた話しや意見交換が楽しみであり、「なんとかなるさ」の気にさせてくれる。
近々に、経営セミナー、自分づくりセミナーのような集まりを行おうと今朝(15日)電話で話した。広報致しますので、その際は、ご参加をお待ち致しております。
今が旬の猪鍋を話の種に加える予定である。
まちおこしは妻
まちづくりや地域活性化の種は、何気ない地域資源の魅力に気づき、活かすことである。
2005年8月22日の中国新聞の夕刊「でるた」の記事に 「まちおこしは妻」と題して掲載して頂いた。この時、いろんな方から共感の電話を頂いたことを思い出す。永年夫婦としていると妻の存在は、空気のようにな り感謝や感動がなくなる。最も近くで陰ながらに支えてくれている妻の存在があってのことに気づくことと、身近な地域の多彩な資源の魅力に気づくことは同じ であると論筆したと思う。
「あれがない、これがあれば」とマイナス志向に陥らずに、手が届くところにある資源を活かし行動を興し、走り続けていれば知力、心力、創造力が増幅するものです。
「なんとかなるさ」で行動し、話題の種播きが大切です。
以下2005年8月22日中国新聞夕刊より
能美海上ロッジ(江田島市)でホッと一息
12月24日(金)に能美海上ロッジを訪ねました。初めての訪問でした。瀬戸内海の美しさは、県下でも有数の観光美ですが、ロッジ内から眺める瀬戸の海の穏やかな海面に年の瀬の気ぜわしさを忘れる時となりました。
日帰り入浴の温泉もあります。展望浴場となっており、リフレッシュには最高と利用者の人気となっているようでした。
広島県は、カキの生産量が全国1位です。江田島市は、県下2位とのことでした。カキ料理のフルコースなど江田島の季節感に溢れた食も楽しめます。
ロッジは地域の就労、交流の施設として生活に根差していました。地域の魅力を住民が協力し取り組んでいるように感じました。
地域経営は、身近な何気ない資源(人・歴史・文化・食材など)の特徴や魅力に気付き、活かすことです。そして、ワクワク童心のように着実に進めることです。
この、身近の良さを発見できる”人”は地域に存在するものです。
全ては自分が播いた運命
青森県で生まれ高校まで過ごし、神奈川県、そして広島県の人口2千人の小さな村「君田村」へ転居した。
まさか広島県まで流れてくることになろうとは。人生は分からないことばかりと、落胆していた。こうなったのも、妻と出会い結婚したことが事の始まりである。
妻には、近所づき合い、昔ながらのしがらみ、慣習など随分とグチをこぼしていた。
君 田に来て間もなく結婚式に出席し、その時の主賓の方の祝辞「妻を愛して、地域を愛して、仕事を愛して豊な人生を築いて下さい」。この3つの愛を自分に照ら した時、いずれも欠けていた。後ろ向きに生きるも人生、前向きに生きるも人生。全ては自分の選択が人生の運命と受け止め、前向きな姿勢に変えるよう努め た。
まちづくりブームの中で君田村も温泉施設を整備し地域振興を図ろうと動き始めていた。そして、村始まって以来のプロジェクト事業「温泉整備と 第3セクター設立」の担当になった。当時の村長の「任せるから地域のしがらみのない新鮮さを出してやってほしい」と言った。なんとかして、村長の政策を実 現したいと、朝早くから夜遅くまで夢中で取り組んだように思う。職場の同僚の人間関係もよく、支えて頂き進めることができた。担当の業務を越えて一丸にな れた。小さな村だからできたのであると思う。
まちづくりは、批判と向き合うことの大切さを学んだ。プラス志向、なんとかなると自分に声をかけても 生身の人間は弱く、落胆の日々も沢山あった。自分とのたたかいであり「なんとかなるさ」「事を興すことには話題になるし批判がつきもの」「歴史の中で真実 を明らかにする」など気持ちを強く持つようにした。様々な批判の声があったから立ち止り、熟慮し、地域に相応しい選択で進めることができた。君田村に来た ことで、新しい自分を築くことができたと感謝しています。
地域づくり、人づくりは、終わりのないテーマであり、社会に貢献していきたい。